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2012
10,26
23:05
【少年ルーク】鏡禍(前編)【カイ←ルク風味】
CATEGORY[φBrain - 物語]
■こちら■
の続きです
ルークが沢山の過ちを犯します
+++
「ン、はぁ……、カイトォ……。パズルが、君を呼んで、ッ、のに……うあっ!!」
薄暗い部屋に、熱く湿った呼気が籠る。
ルーク・盤城・クロスフィールドはかつての親友の訃報に接し、その深い心労のために立ち上がることができなくなっていた。熱にうなされ、時折おかしなうわごとを口走り、それでも意識のある時間は震える手で筆記具を握り、手帳にパズルの図面を描きつけ、吟味し、自室のドアの郵便受けを介して施工者に渡していた。
ピタゴラス伯爵はその白い少年の哀れな様子をつぶさに観察しながら、独り頷き、特に追い打ちをかけるでもなければ手を貸すでもなく、自室での異例な製作作業を黙認していた。
ルークのまともな復帰が叶ったのは、それから10日ほど経った後だった。食事さえ充分に摂れず、幾分か痩せ細った両足を包む白いズックで久しぶりに踏みしめるPOGのグレーの床タイルは硬く、冷たく、――それでも、何か研ぎ澄まされたものを感じ、益々、個性的なパズル製作に精を出した。
「カイトは、僕の永遠になった……。カイト、……カイト、カイト、」
そう、この頃からルークのパズルには、それまでとは異なる、「個性」が表現されるようになっていた。かつての完璧に整った彼のパズルも見事だったが、この、思春期特有の不安定な成長過程によるスパイスが加わることで、彼の作品はさらに興味深いものとなっていった。もはや再構成プログラムが何のために施行されたものであったか、その意義は明確でなくなっていた。
――ファイ・ブレインに必要な資質。それは倫理・感情・常識を超越することにより、才能を開花させること……。
現在のルークにはその真意を理解できる必要がない。ただ、伯爵にとっては欠かせない過程だった。……万一のことを考慮に入れると。
□
ルークが次々と斬新な愚者のパズルを生み出すようになってから久しい。 POGの内部も適宜整理され、全体のシステム、幹部の構成、自室の自由度なども格段に近代化していた。
また、彼自身も成長していた。大人と呼ぶには到底不十分であったが、すらりと手足が伸び、肘や膝、指などの関節は年相応に骨ばり、喉には――詰襟の制服のデザインによってそれは隠されていたが――林檎の欠片を詰まらせたかのようなうっすらとした隆起を持つようになった。柔らかく愛らしい丸みを帯びていた頬はすっきりとし、零れそうに大きかった淡い空色の双眸も、幾分か切れ長の目つきに変化していった。外見だけではない。学問においても、世界史、美術史、音楽史、文学史、医史学、化学史……、様々な分野に触れることで内面的成長を促され。教養を深めていった。その成果がパズルの出来に緻密なまでに組み込まれ、余すことなく反映されていることは、言うまでもないだろう。
彼が早朝、薄暗い自室にて――自らの意思によって、クロスフィールド学院裏の懐かしいラボラトリを想起するような、あえて薄暗い内装で固めていたのだが――、通信端末の画面を繊細な指先でつつきながら、本部からの本日の連絡事項に目を通していたところ、受信ボックスに1件のメールが届いたとのポップアップが画面下に浮上した。
FROM: PYTHAGORAS
TO: ROOK・B・CROSSFIELD
「伯爵からだ……」
ルークはそれを指の腹で2度ほど軽く叩くと、手元に置いたカップに注がれた透明な水を小さく口に含みながら要件に目を通した。とはいっても、伯爵から届くメールにはセキュリティへの配慮のため、具体的な内容は書き連ねられておらず、ただ一言「来るように」と書かれているのみである。
優美な仕草でカップから唇を離し、静かにデスクの上へ置く。そして、その端で小さな存在感を示しているデジタルフォトフレームに表示されたピクチャーを一瞥すると、気に入りの白いチェアからそっと立ち上がり、自室を後にした。
「よく来たな、ルーク・盤城・クロスフィールド」
「は」
白く整えられた頭を垂れながらも背筋を伸ばし、片膝をついて伯爵の言葉を待った。
「お前には、試練を与えようと思う」
――試練……?
任務ではなく、試練。
初めて耳にするその言葉に、内心で首を傾げながらも、ルークはその姿勢より微動だにしない。
「どうだ、受けてみるかね」
「はい、勿論です」
当然のように紡がれた己の言葉が、後の人生を大きく動かすことになるとは想像できなかったところこそが、成長した彼の未成熟さを露呈していたのかもしれなかった。
□
それからの1年間、ルークの意識は部分的に途切れており、思い返そうとも記憶が定かではない箇所が多々あった。伯爵の命を受け、「試練」に挑んだ己の右上腕部に突然付いてきた、古より伝わる、製造者不明の、魔力を帯びた存在。
――オルペウスの腕輪。
フクロウを象るその腕輪は、ルークがパズルを作ろうとする度に禍々しい黄金色を放ち、左眼に赤く不安定な熱を孕ませた。そして彼の潜在能力を極限まで引き出すのと同時に、未だ不完全な彼の頭脳と精神を苛んだ。
――逆暴走。
腕輪は時に青白色の輝きに包まれ、強烈な情動による支配をもたらした。幼い頃の両親との離別、人間が次々と死んでいく凄惨な現場の直視、そして最愛の友との永遠の別れの知らせ……、未だ短い人生のうち、最も辛かった記憶のみが次々と蘇り、繰り返し想起させられ、ルークは心身ともに疲弊した。再構成プログラムの成果がここで表れていたのかルーク自身には分からなかったが、もしそうだったのだとしたら、この時ばかりはプログラムに感謝すべきとしか言いようのない状態だった。
「よく聞け。彼は現在13歳だ」
「……?!」
激しい混乱の中、伯爵の謁見の間に映された巨大映像。
初めに視界に飛び込んだのは、歴史を感じさせるが、よく磨かれたフローリングだった。次に、柔らかく決して明るすぎることのない茶色の、品の良い革靴。続いて、きっちりとプレスされ、清潔感のある鼠色のトラウザーズ。濃紺のコートには臙脂色の裏打ちが丁寧に施されている。襟元には鮮やかな群青のリボンタイ。首筋の肌色は異国の人種を思わせる。そして、両肩には菫色の艶を帯びた、あまり長くはない黒い毛髪が掛かっており……。
――「この試練を克服することができれば、無事に会わせてやろう」
言い終えると伯爵の口元は、厳かに引き結ばれた。
□
ルークの情動は、鏡のように静まりかえる湖になった。けれどもその水面を具に観察すれば、一か所だけ微かに何かが湧出していた。その点では冷泉と例える方が、より的確か。しかし。
――伯爵は、僕たちは黄金比に適う、祝福された頭脳を持つ人間、神のパズルを解読し、神の書を手にする資格を持つ者、ファイ・ブレインであり、古代中国の思想に基づいた、「陰」と「陽」の関係にあると仰っていたけれど。
太極図。合同な二つの巴が混じり合い、全体として調和のとれた一つの円となる。二者の力は常に強まり、弱まり、均衡を保つ。また、陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる。そして、陰陽は互いの存在があることで初めて存在し得るのであり、単独で存在することは決してできないという。ただし、ピタゴラス伯爵が示したそれは、巴の色が一方は黒、もう一方は白と分かれる一般的なものではなく、どちらも同じ色味をした特別な巴だった。
しかし、ルークはカイトと自分が合同だとは考えなかった。カイトとて、ルークなしでも充分に存在し得る。もっと相応しい概念があると確信し、その名前を知っていた。
「鏡面の関係。……カイトが、僕と」
ルークはベッドの中で、両手の白い指先を5本、向かい合わせに重ねた。指先の合わせ目を一つ一つ愛しげに見つめながら、小さく独りごちる。
エナンチオマー。鏡像異性体。鏡合わせで全く同じ性質を持つ者同士。けれどもその輝きのみを異にし、決して重なりあうことのできない存在。
――……それでも、良かった。
「カイトが、生きている……」
――それだけで、良かった。本当は。会うなどしなくとも。
「あぁ、カイト……」
一方の掌をもう一方の手の甲の筋に這わせ、背と腹のように重ねる。同じ形に合わせることのできない指を深く絡ませ、全身を強く伸展させた後、両の腕を互いに滑らせ己の上腕部を柔らかく抱きしめた。左の掌に硬いものが当たる。
――むしろ、会わないほうが。
「カイト……」
祈るように瞼を閉じると、ルークの繊細な白い睫毛がサイドテーブルの淡い光を反射させ、また、その頬や目元にしっとりと影を作った。
――楽しみだね、カイト……
ルークの期待に呼応するかのように、オルペウスの腕輪が、指の隙間から鈍く輝きを放っていた。
□
「ルーク・盤城・クロスフィールド。お前にPOGジャパン総責任者の任を与える」
「有難うございます」
ルークはその日も、この施設で生活を始めてから何度目か分からない辞令を受けていた。英国の外へ活動の場を移すのは初めてのことだったが、その意図は尋ねるまでの事もなかった。
「側近を中央戦略室に手配させた。好きに使いたまえ」
「POGジャパン中央戦略室付ギヴァー、ビショップと申します」
そうして紹介されたのがこの男だった。
第一に、鳶色の短髪は七対三に分けられており、清潔な印象を与えた。第二に、翡翠色の瞳は澄んでおり、誠実な印象を与えた。第三に、服装だ。落ち着いたグレーのハイネックセーターに、クロスフィールド学院の制服よりも暗い濃紺の、丈の長い上着。足元は赤味掛かったダークブラウンのブーツに、下衣の裾をきっちりと仕舞い込み、動きやすい格好に見える。ファッション性は感じられないものの、安定性、機能性を重視していることが窺えた。これらのことから、ルークは彼が有能かつ無害な男であることを瞬時に理解した。
「参りましょう、ルーク様。ご案内いたします」
ビショップに促され、渡日するための支度部屋へ案内された。
全体の印象としては地味な男だったが、このように有彩色を身に付けている構成員に出会うのは、ルークには初めての経験だった。よく見ると目鼻立ちにも特に見苦しい部分がなく、むしろ凛々しい顔立ちをしている。年齢もそう大きく離れてはいないだろう。もしかすると、20歳代に入ったばかり位かもしれない。ルークはその珍しい外見に少しばかり興味を惹かれ、新しい種類のパズルを編み出した時のような気持ちで、まじまじとその横顔を見つめた。
もとより、伯爵の意向により、ルークの存在はPOG内でも限られた者にしか認知されていなかった。また、10代の少年が幹部、まして国外支部の幹部に抜擢されることは、異例の事態だった。ビショップも初めて見る少年の容姿――特に、その徹底した白さと、片目を前髪で覆うという左右非対称な不安定さを有する髪型に、気を落ち着かなくしているかといえば、けれども、そうではなかった。側近は、ルークの歩調に合わせて進み、その視線を感じると目を合わせ、にこりと微笑んだ。思わず息をのむ。
「私も日本に長く滞在したことはありません。ですが、お困りのこと、分からないこと、今後の戦略についてのご提案など、何でもお申し付けくだされば、全力で対応いたします」
しかし、ルークは心の水面に生じた波紋をぐっと静まらせ、短く返答した。
「よろしく頼む」
「もしよろしければ、ご就寝前の読み聞かせや、パズルゲームのお相手なども」
「っ、……いらない」
側近は目元を和らげる。年若い主人の挙動について深く追及することなく、再び前を向いて歩き始めた。
――ただし、その笑顔の真贋に関わらず、僕は……
支度部屋についた後は、すぐに着替えをした。日本支部の総責任者のために作られた制服。ズボンは通常の素材だが、上着が特殊だった。裾が足首まで隠れるほど長く、首元の覆いが深い。色は潔癖なまでに白く、縁取りだけが黒い。袖を通すと、意外な重みがあった。
「何だ、これは」
「防弾仕様です。肩が凝りますが、お命を守るためですので、ご容赦ください」
「命を……?」
「さようです」
「日本でも、通常は銃の携帯が禁じられていると聞いているが」
「ソルヴァーにも様々な人間がおりますよ」
今まで数多の人間を殺めてきたが、明日は我が身ということか。ギヴァーがパズルマンシップを持たないソルヴァーに返り討ちされた、或いは、パズル事故に遭遇した事例は過去に多くはないが、ルークは解答への立ち会いを義務化されてきた都合上、外地での活動は用心するに越したことはないのだろう。極めつけは首回りの重苦しいベルトで、これだけで2ポンドはあるに違いなかった。さらに、靴は白のズックから白銀に輝く革靴へと変えられた。
「当たるところはございませんか。毎日お召しになるものですから」
「……大丈夫だ」
失礼いたします、と一言添えてビショップは品良く跪いた。革靴の爪先、踵、アーチや足の甲の辺りなどに丁寧に触れ、ルークの足に合っていることを確認し終えると、静かに立ち上がった。
それからビショップに手を取られ、小型の航空機に乗り込み、日本へ渡った。POG本部から離れて外の空気を吸い込んだのは、実に7年ぶりの出来事だった。
□
正午の頃にあちらを発ち、半日ほど飛んだが、いざ着陸して空を見上げると、出発時よりも青々と晴れ渡っており、眩しかった。うっすらとした眠気と戦いながら日本支部の研究所の敷地を複雑に進み、――もちろん、その道順はルークの脳内へ正確に記憶されたが、ビショップに案内された場所は窓からの見晴らしの優れた広い浴室だった。
「まだ午前10時ですが、ルーク様はご入浴後、一度お休みになってください」
「……」
ルークは先程着つけられた重苦しい白の制服を丁寧に脱がされ、風呂に入れられた。歩きながらでは特に身体のどこを凝視するでもなかったが、全ての衣服を取り去ると、ビショップは少年の右上腕部に光るものをしっかりと見て、小さく、けれども力強く頷いた。その表情からは後ろ暗さや他意は感じられず、むしろ敬意のようなものが伝わった。試練を乗り越えた者の証が、他の者の目にどう映るのか、正確には分からないが。
浴槽から上がると同時に大きく柔らかいバスタオルで包まれた。
「これくらいは、自分でやる」
「どうしても御嫌なのでなければ、させていただけませんか」
「……」
沈黙を肯定と受け取るとビショップは、ルークの身体、腕、脚と順にタオルで丁寧に水分を吸い取る。続いて水気でしぼみ小さくなった白い頭を、優しく撫で拭き、乾かし、仕上げに櫛を入れ、元のように丸い膨らみのある、美しい球形の髪型に整えた。他人の世話という、パズル製作と何ら無関係の詰まらない労働に従事するギヴァーとはどのようなものだろうかと、少年は怪訝に思い側近の表情を伺ったが、ビショップが只今上機嫌であることくらいしか把握できなかった。
ルークには以前から監視員や付添いの者があったが、側近、部下を持った経験はなく、このような素晴らしい待遇も当然初めてだった。幹部待遇について自分なりに頭の中で整理していると、久しぶりに疲労を感じる。寝室のベッドのサイズと弾力に驚く余裕もないまま、日本支部の若き総責任者は翌朝まで食事も摂らずに寝通した。
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